
相撲をよく知らない人に横綱を説明するとき、私たちはつい「一番強い人」と言ってしまいます。
これは間違いではないものの、おそらく半分くらいしか当たっていないのだろうと思います。
横綱がほかの地位と決定的に違っているのは、強さそのものよりもむしろ構造のほうです。
負け越しても番付が下がらないかわりに、勝てなくなったら辞めるしかないという仕組みになっています。
つまり横綱というのは、いったん上がってしまうと二度と降りられない、一方通行の地位なのです。
横綱とは、番付の一番上であり「降りられない地位」でもあります
この記事では、そこを起点に掘っていきます。
- 綱の重さが横綱によって3倍以上も違うという話
- 雲龍型と不知火型という土俵入りの型の名前がたぶん逆であるという話
- さらには初代横綱の実在が疑われているという話
このように、広く浅く、それでいてところどころだけは少ししつこく取り上げるつもりです。
記事の終わりには、初代から第75代までの歴代横綱一覧も付けておきました。

一行でいうと、こういう地位です
横綱は大相撲の最高位であり、番付の一番上に書かれて、白い綱を締めて土俵入りができる唯一の地位でもあります。
2026年8月現在は、第74代の豊昇龍と第75代の大の里という二人の横綱がいます。
初代とされる明石志賀之助から数えて75人しかいないと言うと少なく聞こえるかもしれませんが、これは江戸時代からの累計ですから、やはり相当に少ない数字だと言っていいでしょう。
横綱になるための条件も、先に書いておきます
横綱に上がることができるのは大関からだけです。
横綱審議委員会の内規は、第1項で「品格、力量が抜群であること」を求めたうえで、第2項で「大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする」と定めています。
さらに第3項があって、そこでは第2項に準ずる好成績を挙げた力士についても、出席委員の3分の2以上の決議があれば推薦できることになっています。
よく言われる「2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」という言い方は、この第2項と第3項を一息にまとめたものだと考えるとわかりやすいと思います。
「横綱」が最高位になるまでには、三つの段階がありました
ここも先に整理しておいたほうが、あとの話が早くなります。
1789年ごろの横綱は、地位ではなく吉田司家が出す免許であって、強豪力士に与えられる称号にすぎませんでした。
それが1890年(明治23年)5月場所になって、初めて番付に「横綱」の文字が載るようになり、さらに1909年(明治42年)になってようやく、正式に最高位と認められたという経緯をたどっています。
つまり1890年に番付へ載った時点でも、制度上の最高位はまだ大関のままでした。
このことは日本相撲協会自身が「明治42年に横綱が正式に最高位となるまでは大関が最高位であり」と書いています。
横綱が番付の一番上を名実ともに手に入れてから、実はまだ120年も経っていないのです。

大関との本当の違いは「負けたあと」に出ます
大関には角番がありますが、横綱には何もありません
大関は2場所連続で負け越すと関脇に落ちますが、落ちたあとも翌場所で10勝すれば大関に戻れるという特例があり、要するに大関にはやり直しの回路がきちんと用意されているわけです。
ところが横綱には、それがありません。
番付に横綱と明記されるようになった1890年5月場所以降、横綱から降格した力士は一人もいませんし、免許制だった時代までさかのぼってみても、いったん出された免許を取り消された横綱はいないのです。
ここで少しややこしいのが、「横綱は降格しない」と書いた規則そのものが見当たらないという点です。
大関の陥落規定のような明文の条文があって降格が禁じられている、という話ではなく、1890年以降そういう例が一度もないまま来たので、その積み重ねが「そういうものだ」として定着している、というのが実態に近いのだろうと思います。
降格しないのは規定によってではなく、あくまで慣行によって、というわけです。
その傍証になりそうな話もあります。日本相撲協会は公式サイトのクイズで、第8代の不知火諾右衛門について「天保13年二月場所では関脇に降格してしまいました」と書き、「史上唯一の番付が降格してしまった横綱」として紹介しているのです。
もちろん横綱がまだ地位ではなく称号だった時代の話ではありますが、協会自身がこの一例を隠さずに載せているというのは、なかなか興味深いところだと思います。
いずれにせよ、成績が落ちた横綱に残されている選択肢は、休むか辞めるかの二つしかありません。
このことは名誉のように語られがちですけれども、当人の立場からすればかなり残酷な設計になっているとも言えるでしょう。
1950年には、あやうく「横綱陥落」ができるところでした
個人的に今回いちばんおもしろいと思ったのがこの話で、実は過去に一度だけ、横綱に降格制度が導入されかけたことがあります。
1950年(昭和25年)の初場所で、東富士・照國・羽黒山という三人の横綱が3日目までに揃って途中休場するという事態が起きました。
前年には横綱・前田山の不祥事もあったため、世間の横綱批判はかなり厳しくなっていた時期で、そうした空気を受けて協会は「2場所連続で休場または負け越した横綱は大関に転落」という決定を下します。
ところがこの決定は、今度は世論の猛反発を食らって撤回されてしまいます。
横綱を落とすとは何事か、というわけで、批判されて作ったルールが、また別の批判によって消えてしまいました。
そして、その撤回と引き換えのようにして同じ1950年に生まれたのが、横綱審議委員会でした。
降格という「制度」を作るかわりに、外部の目で監視するという「装置」を置いたわけで、今の横審が持っている独特の性格は、このねじれた出自からかなりの部分を説明できるのではないかと思います。
横綱の綱は、通常「年3回」つくり直されています
そもそも「横綱」という言葉自体が、あの白い綱に由来しています。
神社の注連縄と同じもので、締めた瞬間にその力士は神域を示す標識になる、という説明はどこにでも書いてありますので、ここではもう少し即物的に、モノとしての綱を見ていくことにします。

材料は、麻と銅線と、さらしと、米ぬかです
綱の材料は、麻が8〜12kgに、芯にする銅線が3本、そしてそれを巻く晒木綿が6〜9反で、晒木綿は幅50cmほど、長さ8mほどのものが使われます。
ここに紙垂(しで)を挟んで完成となるのですが、麻の分量がそのまま完成品の重さになるわけではなく、揉んで整えて切り落としながら仕上げていくことになります。
麻には精麻(せいま)と呼ばれる上質なものが使われていて、第75代・大の里の綱には栃木県鹿沼市の野州麻が用いられました。
400年ほどの歴史がある素材なのですが、戦前には2万5千軒以上あった生産農家がいまや30軒を切っているそうで、横綱の綱というのは、そのくらい細い糸の上に乗っているものでもあるわけです。
米ぬかでもむ、という工程があります
麻はそのままでは硬いので、まず幕下以下の力士たちが米ぬかでもみほぐし、これを一日がかりでやって干し、柔らかくしていきます。
あの神々しい白い綱の第一歩が、力士たちが黙々と麻を米ぬかで揉む作業だというのは、なかなかいい話だと思いませんか。
20人がかりで、およそ3時間かかります
綱打ちの当日には、部屋や一門の力士に加えて、世話人や若者頭など20人前後が集まります。
銅線を芯にして麻を配し、晒で巻いて小綱を3本つくったあと、それを白い手袋をはめた力士たちが、太鼓と「ひ、ふ、み、それ、イチ、ニィ、サン」という掛け声に合わせて左へ練り合わせていきます。
腹の前がいちばん太く、両端に向かって細くなるように形を整えたら、最後は古い綱と並べて長さを比べ、はさみとペンチで端を落として仕上げます。
ここまでで、所要時間はおよそ3時間です。
綱の重さは、横綱によって3倍以上違います
「横綱の綱は何kgなのか」を調べていて、いちばん意外だったのがここでした。
ネット上には10kg説も15kg説も20kg説も転がっていて、いったいどれが正しいのだろうと思いながら調べていたのですが、答えは「全部ありうる」というものだったのです。
大の里は7.2kgで、曙は20kgでした
日本相撲協会の公式クイズが、はっきりと数字を出しています。
「横綱が締める『綱』は太さ、長さ、重さに決まりはあるのでしょうか?」という問題で、正解は「力士によってバラバラ」でした。
具体的には次のようになっています。
| 横綱 | 長さ | 重さ |
|---|---|---|
| 第75代・大の里 | 4.2m | 7.2kg |
| 第74代・豊昇龍 | 4.1m | 7.2kg |
| 第71代・鶴竜 | 4.0m | 6.2kg(平成以降で最軽量) |
| 第64代・曙 | 5.5m | 20kg(平成以降で最長かつ最重) |
曙と鶴竜とでは3倍以上も違っていることになります。
体格に合わせて作るのですから当たり前といえば当たり前なのですが、同じ「横綱の綱」と呼ばれているものが、片方は米袋より軽く、もう片方は小学校低学年の子どもくらいの重さになっているというのは、なかなか想像しにくいところです。
協会によれば、朝青龍を除いて白鵬までは10kgを超える綱が続いていたものの、最近は軽量化が進んで10kgを超える綱は使われなくなっているのだそうです。
不知火型のほうが、必然的に重くなります
同じ解説にさらっと書かれていて驚いたのですが、同じ体格の横綱が締めると仮定した場合、輪が二つある不知火型のほうが長さを必要とするため、その分だけ必然的に重くなるのだそうです。
あとで数えてみるように「不知火型は短命」というジンクスがあるのですが、綱が重いという物理的な事情まであると知ると、少し見え方が変わってくるように思います。
ちなみに協会は別のクイズで「重さはおおよそ5〜6kgほど」とも書いていて、実測値である6.2〜7.2kgとは少しずれています。
こうした数字の揺れも含めて、「決まりはない」というのが本当のところなのだろうと思います。
新調は通常年3回で、使い終わった綱は贈られていきます
綱打ちが行われるのは、通常は東京場所の前の年3回です。
東京場所は初場所・夏場所・秋場所ですから、だいたい2場所4か月に1本のペースになる計算です。
これに加えて新横綱が誕生したときには、それとは別に昇進時にも打ちます。要するに綱は消耗品なのです。
では役目を終えた綱がどうなるかというと、博物館や学校、後援者などに贈られていきます。
相撲博物館には往年の横綱の実物の綱が収蔵されていますが、あれは記念品として飾られているというよりも、単純に次の綱ができたので引退した、というほうが実態に近いのでしょう。
なお製作費用は非公表で、部屋と後援会の負担割合も公開されていません。
ネット上に金額は出回っているものの、出典が確認できませんでしたので、ここでは書かないでおきます。
雲龍型と不知火型、その名前はたぶん逆です
横綱土俵入りには二つの型がある、というのは定番の知識だと思いますが、この話には定番の先があります。

教科書的な説明は、こうなっています
相撲博物館の解説によれば、雲龍型は綱の輪が一つで、せり上がりのときに右手を広げて左手は脇腹につけ、攻めと守りの姿勢を示すといわれています。
これに対して不知火型は綱の輪が二つで、せり上がりで両手を広げ、攻めの姿勢を表すといわれています。
お気づきでしょうか。
協会自身が、どちらについても「いわれます」という留保をつけているのです。これはたぶん、意図的なものだと思います。
ところが、1869年の写真がどうもおかしいのです
英国の写真家フェリーチェ・ベアトが1869年に撮ったとされる写真には、不知火光右衛門と第13代横綱・鬼面山谷五郎が写っているのですが、そこで不知火のほうが左腕を畳んでいます。つまり今でいう雲龍型の格好をしていて、逆に鬼面山のほうが両手を広げているのです。
名前の由来になった当人が、自分の名を冠した型とは違う型で立っているわけです。
太刀山本人も「雲龍の型です」と言っていました
不知火型の完成者とされているのが第22代・太刀山なのですが、その太刀山自身、横綱昇進時に型を勧められた際に「横綱雲龍、即ち後の追手風になった人の型です」と述べています。
当時の新聞や雑誌も太刀山の土俵入りをほとんどが「雲龍型」と報じていて、「不知火の型」と書いたのは2紙だけだったそうです。
さらに好角家の証言でも、不知火光右衛門は「腰を落として左手を脇に当て、右手を伸ばしてせり上がる」動きをしていたと伝わっていて、これもやはり今でいう雲龍型にあたります。
入れ替わりを定着させた人物として、名前が挙がる評論家がいます
では、いつ逆になってしまったのでしょうか。よく名前が挙がるのは相撲評論家の彦山光三で、羽黒山(1941年)と吉葉山(1954年)の土俵入りを「不知火型」と断定して新聞や雑誌に書き広めたことが、現在の呼び方の定着につながったとされています。
もちろん一人の責任と決めつけられるような話ではありませんが、呼称が固まっていく過程はある程度たどることができます。
相撲博物館の初代館長である酒井忠正は「あべこべ説」を唱えましたが、「錦絵一枚でせり上がりの形は断定できない」という反論もあって論争になりましたし、相撲研究者の池田雅雄は1981年の雑誌『相撲』において、「不知火=攻撃型」という解釈そのものを虚説だと切って捨てています。
協会は今も呼称を変えていませんが、あの「いわれます」という書き方は、この百年越しの宿題を知っている人の書き方なのだろうと思います。
ついでに「不知火型は短命」というジンクスを数えてみました
不知火型を選んだ横綱は短命に終わる、という言い伝えがあります。
よく聞くわりに誰も数えていないような気がしましたので、実際に数えてみることにしました。
白鵬より前の時期は、たしかに異常でした
年6場所制になった1958年以降で、白鵬が昇進する2007年より前の不知火型は6人いました。
その在位場所数は玉の海が10場所、琴櫻が8場所、隆の里が15場所、双羽黒が8場所、旭富士が9場所、3代若乃花が11場所となっています。
平均すると10.2場所、最長でも15場所にしかなりません。
同じ期間の雲龍型は平均35.1場所ですから、不知火型の最長記録が雲龍型の平均の半分にも届いていません。
この期間だけを切り取ってみるかぎり、たしかにかなり大きな差が出ていると言えるでしょう。
それでも、原因はたぶん型ではありません
ただ、内訳を見ていくと話が変わってきます。
玉の海が在位10場所で終わったのは在位中に27歳で亡くなったからですし、双羽黒の8場所も部屋を出奔しての廃業によるものですから、どちらも型とは何の関係もありません。
もう一つ大きいのが昇進年齢で、吉葉山、琴櫻、隆の里というように、30代に入ってから綱を締めた遅咲きの横綱に不知火型が目立っています。
その年齢で昇進すれば在位が短くなるのは当たり前ですから、これは型の問題というより年齢の問題でしょう。
そもそも型は本人が完全に自由に選べるものでもなく、師匠や一門の系譜にかなり引っ張られるものですし、標本がわずか6人しかない以上、ここから何かを言い切るのはやはり無理があると思います。
そして決定的なのが2007年以降の3人で、白鵬が84場所、日馬富士が31場所、照ノ富士が21場所と、平均45.3場所になって雲龍型の平均を軽々と上回ってしまいました。
ジンクスはここで事実上終わっていますし、戦前まで遡ってみても羽黒山が30場所在位していますから、「必ず短命」という命題はそもそも最初から成立していませんでした。
統計というのは数え方を決めた瞬間に半分は結論が出てしまうものだと、あらためて思わされる例です。
初代横綱・明石志賀之助は、実在すら疑われています
歴代横綱の一覧を見ると、初代の明石志賀之助から第75代の大の里まできれいに番号が振られていますが、この連番はいったい誰が決めたものだと思われるでしょうか。
答えは相撲協会ではなく、一人の元横綱でした
1895年(明治28年)、第12代横綱だった陣幕久五郎が、石碑を建てるために歴代横綱の系譜『横綱力士累代姓名』を作成しました。
そして1900年(明治33年)、東京・深川の富岡八幡宮に「横綱力士碑」が完成します。
白御影石でできた高さ3m50cm、重さ20トンの碑で、その裏面に初代・明石志賀之助以降の横綱の名が刻まれました。
ここに載った代数が、そのまま今日まで公認の歴代横綱一覧として通用しているのです。
つまり公式の代数は、協会が学術的に確定させたものではなく、明治の元横綱が私費と人脈で進めた顕彰事業の成果物なのです。
陣幕は引退後に実業家となった人物で、薩摩藩お抱えだった経歴を生かし、政財官界の大物を巻き込みながら相撲関係の建碑事業に奔走しました。
ちなみにその系譜のなかで陣幕自身は第12代に置かれていますので、自分で作った表に自分で番号を振ったことにもなります。
初代・2代・3代あたりは、かなり怪しいのです
初代とされる明石志賀之助は、伝わっている事績の多くが講談由来であって、信憑性はかなり低いとされています。
実在そのものを否定する研究者もいれば、「明石」という名の力士が複数いたのではないかという説もありますし、証拠とされた番付は後年になって偽物と判定され、しかもそのうち1枚は陣幕久五郎による創作とみられています。
実在しなかったと断定できるわけではないものの、少なくとも「初代横綱」として名前が独り歩きするだけの根拠は薄いと言わざるを得ません。

2代の綾川五郎次についても免許の確証がありませんし、3代の丸山権太左衛門にいたっては正式な横綱免許を受けていません。
ではなぜこの二人が歴代に入ったのかというと、1789年に谷風と小野川へ免許を与えるとき、吉田司家が寺社奉行に出した書類に「過去に綾川、丸山という者に免許を与えたが、記録は火災で失われた」と書いたからです。
この一文が、百年後になって二人を歴代横綱にしてしまいました。
おまけに、年代も噛み合っていません
碑は綾川の大関昇進を1717年としている一方で、丸山は1713年生まれとされています。
素直に読めば、綾川が大関になった年に丸山はまだ数え5歳の幼児ですから、順序としては綾川が2代であるほうが自然だという指摘もあります。
もっとも、そもそも綾川の1717年大関説自体が後世の伝承に頼ったものですので、初期3代の年代については史料上の整合性からして怪しいというのが実際のところです。
協会の公式サイトが、そっと示していること
日本相撲協会は明石を実在の力士とみなして初代に認定しています。
ただ公式サイトの歴代横綱一覧をよく見てみると、初代から第3代までだけ在位期間が空欄になっていて、初代と2代の出身地には「?」がついているのです。
在位が明記されるのは第4代の谷風からですから、協会もたぶんわかったうえで、それでも消さずに残しているのだろうと思います。
雷電はなぜ横綱になれなかったのか、という定番の謎
254勝10敗、勝率.962という数字を残し、江戸時代の最強力士と呼ばれる雷電為右衛門ですが、その生涯の最高位は大関でした。
この理由については昔からいろいろなことが言われていますけれども、並べてみるとどれもけっこう弱いのです。

よく言われる説を、ひととおり並べてみます
まず「本人が辞退した」という説がありますが、辞退したという記録も資料もまったく存在していません。
「同時に免許を受ける相方がいなかった」という説も見かけるものの、谷風・小野川以降は免許を単独で出すのが通例になっていましたから、そもそも相方は必要ありませんでした。
「上覧相撲に出ていなかったから」という説にいたっては、雷電は実際に上覧相撲へ出場していますし、そのうえ上覧相撲が免許の条件だったことは一度もありません。
藩どうしの対立を理由に挙げる説もあって、これは雷電を抱えた雲州松平家と、吉田司家の主家である熊本細川家との確執が原因だとするものですが、こちらも実証的な根拠はありません。
俗説として広く知られている「強すぎて禁じ手を課された」という話も同様で、有名なわりに信頼できる出典が見当たらないというのが正直なところです。
いちばん身も蓋もない答え
この点については、研究者の新田一郎が示している見方がたぶん一番すっきりしていると思います。
谷風と小野川が免許を受けた段階では、横綱はまだ恒久的な制度として成立していませんでした。ですから雷電が免許されていないのは、むしろ当たり前だというのです。
「なぜ横綱になれなかったのか」という問いの立て方そのものが、後世の制度を過去に投影してしまった錯覚なのかもしれない、というわけですね。
なお陣幕の横綱力士碑には、雷電の名も刻まれています。
ただし横綱としてではなく、「無類力士」という特別枠での掲載です。
代数に入れるわけにはいかないけれど、かといって外すわけにもいかなかったのでしょう。
困った末にこういう欄を作った明治の人たちの気持ちは、なんとなくわかるような気がします。
横綱審議委員会は、実は横綱を辞めさせられません
横審が引退勧告を出したら横綱は辞めなければならない、と思っている方は多いと思いますし、私も調べるまではそう思っていました。
生まれたきっかけは、野球観戦でした
横審が設けられたのは1950年のことで、きっかけは複数あるのですが、直接の引き金として有名なのは前年に起きた横綱・前田山の一件です。
1949年10月場所、前田山は大腸炎を理由に休場届を出しました。
ところが同月15日の夕方、病院に戻るはずだったところを後楽園球場に現れ、サンフランシスコ・シールズ対巨人の試合を観戦したうえ、フランク・オドールと握手までしているところを撮られてしまい、その写真が新聞に大きく載ってしまいます。
批判が殺到した結果、前田山は土俵入りも千秋楽の出場も認められないまま、引退勧告を受けて引退しました。
横綱在位はわずか6場所で、これは昭和以降に昇進した力士としては最短の記録です。
休場中の力士が野球を見に行っただけの話が、横綱を選ぶ仕組みそのものを変えてしまいました。
「激励」「注意」「引退勧告」の3段階があります
横審の内規には、休場が多い場合や、体面を汚した場合、地位に堪えないほど不成績である場合などについて、出席委員の3分の2以上の決議によって「激励」「注意」「引退勧告」などを行うと定められています。
ただしこの決議に法的拘束力はありません。
横審はあくまで諮問機関ですから、横綱を降格させる権限も辞めさせる権限も持っておらず、持っているのは言う権利だけなのです。
実際に使われたのは、たったこれだけです
そのわりに、実際に発動された回数は驚くほど少なくなっています。
- 2010年2月、朝青龍に引退勧告が出されました。横綱に対しては史上初のことで、同じ日に本人が引退届を提出しています。
- 2018年11月、稀勢の里に激励が決議されました。これが初めての激励決議でした。
- 2020年11月、白鵬と鶴竜に注意が決議されました。これも初めての注意決議です。
70年以上あって、この程度なのです。
委員長が場所後の会見で厳しい注文をつけること自体はしょっちゅうあります。
それと正式な決議とはまったく別物で、実際に2026年7月の横審でも、両横綱にかなり厳しい意見が並んだうえで、決議については委員長自身が「今回は出しません」と明言しています。
「横審が苦言を呈した」という報道と「決議が出た」という事実は、まったく違う話なのです。
拘束力ゼロの勧告が、なぜ効くのでしょうか
結局のところ横審の決議は、「世間がそう見ている」ということを公式に可視化する装置なのだろうと思います。
もともと降格制度が世論の反発で潰れた代わりに置かれた仕組みなのですから、世論の代弁者であるのは筋が通っているわけです。
権限は持っていないのに実際には効いてしまうという、この気味の悪いくらい日本的な仕組みが70年以上ちゃんと機能してきたというのは、それはそれですごいことだと思います。
横綱に勝つと、その1勝が毎場所4万円ずつ効き続けます
平幕力士が横綱を倒すと金星になり、座布団が飛ぶことになります。あの金星に値段がついていることは比較的知られていますが、その効き方はもう少し変わっているのです。

金星1個で持ち給金が10円増え、関取なら毎場所4万円になります
力士には給料とは別に「力士褒賞金(持ち給金)」というものがあり、円単位の点数を積み上げていったうえで、そこに支給割合を掛けた額が本場所ごとに支払われる仕組みになっています。
1998年以降の支給割合は4,000倍です。
金星を1個挙げると、この持ち給金が10円加算されますので、10円に4,000を掛けて1場所あたり4万円、年6場所ですから年24万円になります。
ポイントは一度上がった持ち給金が二度と下がらないことで、番付が落ちても減ることなく、十両以上の関取でいるかぎり毎場所支払われ続けます。
つまり金星は一回きりのボーナスではなく、現役のあいだずっと効き続ける手当に近いものなのです。
安芸乃島の場合、最後は給金の半分が「横綱に勝った分」でした
史上最多の金星保持者は安芸乃島の16個で、内訳は千代の富士から4個、北勝海から4個、旭富士から4個、大乃国から2個、そして曙と武蔵丸から1個ずつとなっています。
安芸乃島の最終的な持ち給金は300円で、毎場所120万円が支給されていました。
そのうち金星による加算分が160円ですから毎場所64万円にあたり、現役後半には褒賞金の半分以上が「横綱に勝った分」でできていた計算です。
つまり金星というのは、一度挙げれば十数年ぶん効き続ける1勝なのです。
座布団が舞っているとき、経理的にはそういうことが起きているわけですね。
昇進が決まってからの、あわただしい数日間
「横綱になる条件」を書いた記事はいくらでもあるのですが、条件を満たしたあとに何が起きるかを書いた記事はほとんどなく、ここは意外と空白地帯になっています。
ちなみに大の里の場合は、昇進決定が2025年5月28日で、二所ノ関部屋での綱打ちが翌29日という、ほとんど徹夜のような日程でした。

明治神宮で、初めて綱を締めます
新横綱の土俵入りが初めて披露されるのは、明治神宮での奉納土俵入りです。
明治神宮の記録では1922年(大正11年)11月2日に大錦が奉納したのが最初とされていて、1925年(大正14年)11月1日に栃木山・西ノ海・常ノ花の三横綱が奉納したあたりから、協会の行事として定着していきました。
戦争で中断したのち1952年に再興され、今日まで続いています。2026年1月6日には豊昇龍と大の里が揃い踏みし、これが6年ぶりのことだと報じられました。
大の里の奉納は、極めて珍しい「社殿内の土俵入り」になりました
2025年5月30日、大の里はこの明治神宮で、師匠の二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)から受け継いだ雲龍型を披露しました。
ただし当日は雨だったため一般公開は中止となり、参拝客の入れない社殿内での奉納になっています。
協会広報によれば、新横綱が明治神宮で土俵入りをするようになった第41代・千代ノ山以降、悪天候による社殿内での実施はこれが初めてだったそうです。
70年以上やってきて初めての形が、この日に出ました。
太刀持ちと露払いは、誰でもいいわけではありません
横綱土俵入りに付き従う二人にも、細かい決まりがあります。
二人は関脇以下の幕内力士から選ばれ、大関が務めるのは例外的とされていて、所属は同部屋が優先され、揃わなければ同一門から選ばれます。二人のうちでは太刀持ちのほうが格上とされ、原則として横綱に次いで番付が高い力士が務めることになっていますし、大銀杏が結えない力士は務められません。
また太刀持ちと露払いが対戦する日には、どちらかが外れることになっています。
土俵下では左から太刀持ち・横綱・露払いの順に並び、土俵に上がるときは露払いが先、次に横綱、そして太刀持ちが最後になります。
太刀持ちが掲げるのは陣太刀拵と呼ばれる装飾性の高いもので、横綱に贈られた太刀が使われ、現代の刀匠が制作した例もあります。
大の里の初土俵入りでは太刀持ちが高安、露払いが竜電でしたが、これは二所ノ関部屋に他の幕内力士がいなかったため、同一門から選ばれた形です。
横綱免許を出していた家が、どう終わったか
160年続いた免許式の、最後の日
横綱免許を出していたのは、肥後熊本藩・細川家お抱えの行司家元である吉田司家でした。
1789年の谷風・小野川から数えておよそ160年のあいだ、横綱は「協会がなるもの」ではなく「吉田家に許されるもの」でした。
その最後の免許式は1949年3月、第40代・東富士に対して行われました。
1950年に横綱審議委員会が発足し、翌1951年には協会と吉田司家の話し合いによって、以後は協会が横綱を決定することになります。
協会が独自に推挙した最初の横綱が第41代・千代の山で、吉田家に残されたのは推挙式に立ち会うだけの儀礼的な役割でした。
そして1986年、静かに縁が切れました
1986年(昭和61年)、吉田司家の内部で金銭上の不祥事が発覚します。
事務職員が野球賭博に関与していたもので、同じ年に2度の不渡りを出し、司家は倒産状態に陥ってしまいました。
同年7月には当主と協会理事長の会談によって、横綱授与の儀式は全面的に協会へ委ねられ、関係は中断されます。
ちょうどそのとき推挙されたのが、あの双羽黒でした。現在、横綱の推挙はすべて協会が行っています。
歴代横綱の記録を並べると、「強さ」にもいろいろあります
ここまで横綱の制度や歴史を見てきましたが、最後に少しだけ数字の世界へ行ってみます。
ただし、一つ注意があります。
「横綱の記録」には、のちに横綱になった力士の通算記録と、実際に横綱の地位にいた期間だけの記録が混ざりやすいのです。
たとえば白鵬の優勝45回は幕内での通算優勝回数で、大関時代の優勝も含みます。
ここでは、その違いがわかるように分けて見ていきます。

横綱経験者の幕内優勝回数、トップ5
- 1位 白鵬 — 45回
- 2位 大鵬 — 32回
- 3位 千代の富士 — 31回
- 4位 朝青龍 — 25回
- 5位 北の湖 — 24回
白鵬の45回がどれほど飛び抜けているかは、2位の大鵬と13回も差があると考えるとわかりやすいでしょう。
年6場所すべてに出たとしても、13回というのは2年以上ずっと優勝し続けても埋まらない差です。
しかも白鵬は全勝優勝16回も歴代最多。
45回の優勝のうち、およそ3回に1回は15日間一度も負けずに終えたことになります。
連勝記録は、双葉山の69連勝がいまだに1位です
優勝回数では白鵬ですが、連勝記録だけは別です。
- 双葉山 — 69連勝
- 谷風 — 63連勝
- 白鵬 — 63連勝
- 梅ケ谷 — 58連勝
- 太刀山 — 56連勝
- 千代の富士 — 53連勝
富岡八幡宮の「超五十連勝力士碑」に刻まれているのも、この6人です。
ただし、ここにも時代の違いがあります。江戸・明治・大正期の谷風、梅ケ谷、太刀山の記録には、途中に「分」「預」「休」が入っています。
現在の感覚でいう、一度も勝ち以外を挟まずに勝ち続けた記録として比較しやすい昭和以降では、双葉山69、白鵬63、千代の富士53の3人だけが50連勝を超えています。
双葉山の69連勝は1936年から1939年にかけての記録です。
白鵬が63まで伸ばした2010年、「あと6つ」で73年ぶりの更新が見えてきました。しかし九州場所2日目、稀勢の里に寄り切られてストップ。
69という数字は、結局いまも残っています。
「7場所連続優勝」は朝青龍と白鵬だけ
連勝とは別に、連続して優勝した回数にも記録があります。
7場所連続優勝を達成したのは、朝青龍と白鵬の二人だけです。
朝青龍は2004年11月場所から2005年11月場所まで7場所連続で優勝しました。そして、この途中の2005年は年間6場所すべてで優勝しています。
一月、三月、五月、七月、九月、十一月。年間に行われた本場所を全部一人で持っていってしまったわけです。
年6場所制になって以降、年間6場所完全制覇を達成した横綱は、2026年現在でも朝青龍しかいません。
一方の白鵬は2010年3月場所から7場所連続優勝。
さらに年間勝利数では86勝という記録を2009年と2010年の2年連続で残しています。
年6場所なら最大90勝ですから、年間で負けたのはわずか4番。数字にしてしまうと、少し気味が悪いくらい強いです。
「横綱になってから」最も勝ったのも白鵬です
ここからは通算ではなく、横綱の地位で土俵に上がった期間だけを数えます。
- 1位 白鵬 — 899勝
- 2位 北の湖 — 670勝
- 3位 千代の富士 — 625勝
白鵬の899勝は、2位の北の湖より229勝も多い数字です。
白鵬の幕内通算勝利は1,093勝ですから、そのうち899勝、つまり8割以上を横綱になってから積み上げています。
普通は横綱になった時点で力士人生のかなり後半に入っているはずなのですが、白鵬の場合は、そこからが長すぎました。
横綱在位も白鵬の84場所が最長です
- 1位 白鵬 — 84場所
- 2位 北の湖 — 63場所
- 3位 千代の富士 — 59場所
- 4位 大鵬 — 58場所
白鵬は2007年7月場所から2021年9月場所まで横綱でした。期間にすると14年以上です。
この記事の最初に「横綱は降格しない」と書きました。
つまり84場所という記録は、84場所ものあいだ、成績が悪くなれば「大関へ落ちる」のではなく常に引退と隣り合わせの地位に居続けたという数字でもあります。
最年少横綱は21歳2か月、最年長は32歳1か月
横綱になる年齢にも、約11年もの開きがあります。
史上最年少は第55代・北の湖の21歳2か月。1974年に記録して以来、半世紀以上破られていません。
反対に最年長昇進は第53代・琴櫻の32歳1か月です。
21歳で横綱になった北の湖と、32歳で初めて綱を締めた琴櫻。同じ「横綱」でも、そこへたどり着くまでの時間はまったく違います。
当然ながら、この差はその後の横綱在位期間にも大きく影響します。不知火型のところで触れた「短命横綱」の統計を見るときにも、昇進年齢を無視できない理由がここにあります。
短い記録にも、それぞれ事情があります
長い記録ばかりではありません。
前田山の横綱在位は6場所で、昭和以降に昇進した横綱では最短です。年6場所制になった1958年以降では、琴櫻・三重ノ海・双羽黒の8場所が最短になります。
そして双羽黒は、歴代横綱のなかで幕内最高優勝を一度もしないまま現役を終えた唯一の横綱です。大関時代にも横綱時代にも優勝はありませんでした。
「優勝したことのない力士が、なぜ横綱になれたのか」と思いますが、横綱昇進に優勝そのものが絶対条件として明文化されているわけではありません。
双羽黒は1986年、2場所続けて優勝次点となった成績などを評価されて昇進しました。
そして翌1987年、部屋を出奔して廃業。この一件は、その後の横綱昇進審査を慎重にする大きなきっかけになりました。
記録を一枚にすると、こんな横綱たちです
- 最多幕内優勝 — 白鵬 45回
- 最多全勝優勝 — 白鵬 16回
- 最多連勝 — 双葉山 69連勝
- 最多連続優勝 — 朝青龍・白鵬 7場所
- 年間6場所完全制覇 — 朝青龍 2005年(史上唯一)
- 年間最多勝 — 白鵬 86勝
- 横綱としての最多勝 — 白鵬 899勝
- 横綱最長在位 — 白鵬 84場所
- 最年少横綱 — 北の湖 21歳2か月
- 最年長横綱昇進 — 琴櫻 32歳1か月
- 優勝経験なしで横綱 — 双羽黒(歴代唯一)
こうして並べると、白鵬がほとんどの項目に顔を出します。
それでも連勝だけは双葉山、年間完全制覇だけは朝青龍、最年少だけは北の湖。全部の記録を一人の横綱が持っているわけではありません。
何をもって「史上最強」とするかは、結局どの数字を見るかで変わります。
優勝回数なら白鵬、連勝なら双葉山、一年間の支配力なら2005年の朝青龍。横綱の歴史がおもしろいのは、数字を並べても一人に決めきれないところなのかもしれません。
序二段から横綱に戻った男
第73代・照ノ富士の経歴は、何度見ても現実感がありません。
2015年に大関へ昇進したものの2017年に陥落し、膝と内臓を壊して2019年3月場所には西序二段48枚目まで落ちてしまいました。
そこから2020年に十両復帰を果たし、同年7月に幕内復帰、2021年3月に大関復帰、そして同年7月には横綱まで戻ってきました。
三役経験者が実質的に初めて序二段まで落ち、そこから最高位まで返り咲いた例です。
2025年1月に引退しました。
2026年8月現在の横綱
現在の横綱は、第74代・豊昇龍(モンゴル出身、2025年3月場所から在位)と、第75代・大の里(石川県津幡町出身、2025年7月場所から在位)の二人で、どちらも雲龍型です。
大の里は2023年5月に幕下10枚目格付出で初土俵を踏み、13場所で横綱に到達しました。
これは年6場所制になった1958年以降で最速で、それまでの記録保持者は輪島(初土俵から21場所)でした。
日本出身の横綱としては、稀勢の里以来8年ぶりでした。
なお外国出身の横綱は、曙・武蔵丸・朝青龍・白鵬・日馬富士・鶴竜・照ノ富士・豊昇龍の8人で、内訳はハワイ出身が2人、モンゴル出身が6人です。
待遇にも触れておくと、2026年8月現在の横綱の月給は300万円です。
2026年7月の理事会で改定が決まり、2027年初場所から330万円になります。
関取の給与改定は2019年以来8年ぶりで、同時に幕内優勝賞金も1,000万円から2,000万円へ倍増します。
こちらは1994年以来、33年ぶりの改定です。
歴代横綱一覧(初代〜第75代)
最後に、日本相撲協会の公式サイトに基づいて歴代横綱を並べておきます。
初代から第3代までは在位期間が空欄になっており、
初代と2代の出身地に「?」がついているのは、これまで書いてきたとおり協会の表記どおりです。
初代〜第25代(江戸〜大正初期)
| 代 | 四股名 | 出身地 | 在位期間 |
|---|---|---|---|
| 初代 | 明石志賀之助 | 栃木県宇都宮市? | ― |
| 2 | 綾川五郎次 | 栃木県栃木市? | ― |
| 3 | 丸山権太左衛門 | 宮城県登米市 | ― |
| 4 | 谷風梶之助 | 宮城県仙台市 | 寛政元年11月〜寛政6年11月 |
| 5 | 小野川喜三郎 | 滋賀県大津市 | 寛政元年11月〜寛政9年10月 |
| 6 | 阿武松緑之助 | 石川県鳳珠郡能登町 | 文政11年3月〜天保6年10月 |
| 7 | 稲妻雷五郎 | 茨城県稲敷市 | 文政12年10月〜天保10年11月 |
| 8 | 不知火諾右衛門 | 熊本県宇土市 | 天保11年11月〜天保15年1月 |
| 9 | 秀の山雷五郎 | 宮城県気仙沼市 | 弘化2年11月〜嘉永3年3月 |
| 10 | 雲龍久吉 | 福岡県柳川市 | 文久元年10月〜元治2年2月 |
| 11 | 不知火光右衛門 | 熊本県菊池郡大津町 | 文久3年11月〜明治2年11月 |
| 12 | 陣幕久五郎 | 島根県松江市 | 慶応3年4月〜慶応3年11月 |
| 13 | 鬼面山谷五郎 | 岐阜県養老町 | 明治2年4月〜明治3年11月 |
| 14 | 境川浪右衛門 | 千葉県市川市 | 明治10年1月〜明治14年1月 |
| 15 | 梅ケ谷藤太郎(初代) | 福岡県朝倉市 | 明治17年5月〜明治18年5月 |
| 16 | 西ノ海嘉治郎(初代) | 鹿児島県薩摩川内市 | 明治23年5月〜明治29年1月 |
| 17 | 小錦八十吉 | 千葉県山武郡横芝光町 | 明治29年5月〜明治34年1月 |
| 18 | 大砲万右衛門 | 宮城県白石市 | 明治34年5月〜明治41年1月 |
| 19 | 常陸山谷右衛門 | 茨城県水戸市 | 明治37年1月〜大正3年5月 |
| 20 | 梅ケ谷藤太郎(二代) | 富山県富山市 | 明治37年1月〜大正4年6月 |
| 21 | 若島権四郎 | 千葉県市川市 | 明治38年6月〜明治40年1月 |
| 22 | 太刀山峰右衛門 | 富山県富山市 | 明治44年6月〜大正7年1月 |
| 23 | 大木戸森右衛門 | 兵庫県神戸市 | 大正2年1月〜大正3年1月 |
| 24 | 鳳谷五郎 | 千葉県印西市 | 大正4年6月〜大正9年5月 |
| 25 | 西ノ海嘉治郎(二代) | 鹿児島県西之表市 | 大正5年5月〜大正7年5月 |
第26代〜第50代(大正〜昭和40年代)
| 代 | 四股名 | 出身地 | 在位期間 |
|---|---|---|---|
| 26 | 大錦卯一郎 | 大阪府大阪市 | 大正6年5月〜大正12年1月 |
| 27 | 栃木山守也 | 栃木県栃木市 | 大正7年5月〜大正14年5月 |
| 28 | 大錦大五郎 | 愛知県弥富市 | 大正7年5月〜大正11年1月 |
| 29 | 宮城山福松 | 岩手県一関市 | 大正11年5月〜昭和6年1月 |
| 30 | 西ノ海嘉治郎(三代) | 鹿児島県霧島市 | 大正12年5月〜昭和3年10月 |
| 31 | 常ノ花寛市 | 岡山県岡山市 | 大正13年5月〜昭和5年5月 |
| 32 | 玉錦三右衛門 | 高知県高知市 | 昭和8年1月〜昭和13年5月 |
| 33 | 武蔵山武 | 神奈川県横浜市 | 昭和11年1月〜昭和14年5月 |
| 34 | 男女ノ川登三 | 茨城県つくば市 | 昭和11年5月〜昭和17年1月 |
| 35 | 双葉山定次 | 大分県宇佐市 | 昭和13年1月〜昭和20年11月 |
| 36 | 羽黒山政司 | 新潟県新潟市 | 昭和17年1月〜昭和28年9月 |
| 37 | 安藝ノ海節男 | 広島県広島市 | 昭和18年1月〜昭和21年11月 |
| 38 | 照國万蔵 | 秋田県湯沢市 | 昭和18年1月〜昭和28年1月 |
| 39 | 前田山英五郎 | 愛媛県八幡浜市 | 昭和22年11月〜昭和24年10月 |
| 40 | 東富士謹一 | 東京都台東区 | 昭和24年1月〜昭和29年9月 |
| 41 | 千代の山雅信 | 北海道松前郡福島町 | 昭和26年9月〜昭和34年1月 |
| 42 | 鏡里喜代治 | 青森県三戸郡三戸町 | 昭和28年3月〜昭和33年1月 |
| 43 | 吉葉山潤之輔 | 北海道石狩市 | 昭和29年3月〜昭和33年1月 |
| 44 | 栃錦清隆 | 東京都江戸川区 | 昭和30年1月〜昭和35年5月 |
| 45 | 若乃花幹士(初代) | 青森県弘前市 | 昭和33年3月〜昭和37年3月 |
| 46 | 朝潮太郎 | 鹿児島県大島郡徳之島町 | 昭和34年5月〜昭和36年11月 |
| 47 | 柏戸剛 | 山形県鶴岡市 | 昭和36年11月〜昭和44年7月 |
| 48 | 大鵬幸喜 | 北海道川上郡弟子屈町 | 昭和36年11月〜昭和46年5月 |
| 49 | 栃ノ海晃嘉 | 青森県南津軽郡田舎館村 | 昭和39年3月〜昭和41年11月 |
| 50 | 佐田の山晋松 | 長崎県南松浦郡新上五島町 | 昭和40年3月〜昭和43年3月 |
第51代〜第75代(昭和45年〜現在)
| 代 | 四股名 | 出身地 | 在位期間 |
|---|---|---|---|
| 51 | 玉の海正洋 | 愛知県蒲郡市 | 昭和45年3月〜昭和46年9月 |
| 52 | 北の富士勝昭 | 北海道旭川市 | 昭和45年3月〜昭和49年7月 |
| 53 | 琴櫻傑将 | 鳥取県倉吉市 | 昭和48年3月〜昭和49年5月 |
| 54 | 輪島大士 | 石川県七尾市 | 昭和48年7月〜昭和56年3月 |
| 55 | 北の湖敏満 | 北海道有珠郡壮瞥町 | 昭和49年9月〜昭和60年1月 |
| 56 | 若乃花幹士(二代) | 青森県南津軽郡大鰐町 | 昭和53年7月〜昭和58年1月 |
| 57 | 三重ノ海剛司 | 三重県松阪市 | 昭和54年9月〜昭和55年11月 |
| 58 | 千代の富士貢 | 北海道松前郡福島町 | 昭和56年9月〜平成3年5月 |
| 59 | 隆の里俊英 | 青森県青森市 | 昭和58年9月〜昭和61年1月 |
| 60 | 双羽黒光司 | 三重県津市 | 昭和61年9月〜昭和62年11月 |
| 61 | 北勝海信芳 | 北海道広尾郡広尾町 | 昭和62年7月〜平成4年3月 |
| 62 | 大乃国康 | 北海道河西郡芽室町 | 昭和62年11月〜平成3年7月 |
| 63 | 旭富士正也 | 青森県つがる市 | 平成2年9月〜平成4年1月 |
| 64 | 曙太郎 | 米国ハワイ・オアフ島 | 平成5年3月〜平成13年1月 |
| 65 | 貴乃花光司 | 東京都中野区 | 平成7年1月〜平成15年1月 |
| 66 | 若乃花勝 | 東京都中野区 | 平成10年7月〜平成12年3月 |
| 67 | 武蔵丸光洋 | 米国ハワイ・オアフ島 | 平成11年7月〜平成15年11月 |
| 68 | 朝青龍明徳 | モンゴル・ウランバートル | 平成15年3月〜平成22年1月 |
| 69 | 白鵬翔 | モンゴル・ウランバートル | 平成19年7月〜令和3年9月 |
| 70 | 日馬富士公平 | モンゴル・ゴビアルタイ | 平成24年11月〜平成29年11月 |
| 71 | 鶴竜力三郎 | モンゴル・スフバートル | 平成26年5月〜令和3年3月 |
| 72 | 稀勢の里寛 | 茨城県牛久市 | 平成29年3月〜平成31年1月 |
| 73 | 照ノ富士春雄 | モンゴル・ウランバートル | 令和3年9月〜令和7年1月 |
| 74 | 豊昇龍智勝 | モンゴル・ウランバートル | 令和7年3月〜 |
| 75 | 大の里泰輝 | 石川県河北郡津幡町 | 令和7年7月〜 |
結局、横綱とは何なのか
ここまで書いてきてあらためて思うのは、横綱という地位が驚くほど後付けの積み重ねでできているということです。
もともと称号だったものが番付に載るようになり、やがて最高位になりました。
代数は明治の元横綱が石碑のために作ったものですし、土俵入りの型の名前はたぶん逆であるにもかかわらず、それを直す機会を百年ものあいだ逃し続けています。
降格制度は一度作られながら世論に潰され、代わりに置かれた委員会には何の権限もありませんし、そもそも「横綱は降格しない」と書いた規則すら、探しても出てきません。
それでも横綱は、日本でいちばん重い肩書きとして機能し続けているわけです。
厳密な制度設計があるから重いのではなく、重いことにしようと長いあいだみんなで決め続けてきたから重いのだろうと思います。
麻と銅線と晒でできた通常年3本の消耗品が、締めた瞬間に神の依り代になるのと、たぶん同じ理屈なのでしょう。
次に横綱土俵入りを見る機会があったら、せり上がりのときの左手に注目してみてください。脇腹についていれば雲龍型、両手が広がっていれば不知火型になります。
そのうえで心のなかで小さく「でも名前、逆かもしれないんだよな」と思ってもらえたなら、この記事を書いた甲斐があります。
また、相撲についても詳細にまとめたので、気になるっ方はぜひよs三進めてきてくださいね。
