『日本書紀』を初めて買ったのは、書店で、とある出版社の文庫版を見つけたときでした。
「日本最古の正史」という言葉に少し気圧されながら読み始めたものの、神様の名前が延々と続くうえに、さっき読んだはずの場面が、少しずつ違う形で何度も出てくるので、三十ページほどで手が止まってしまいました。
ですが、くり返しに見えたのは、「別の本ではこう書いてある」という別バージョンの神話を、編纂者がわざわざ並べて残した部分だったんです。

※あくまでもAIによるイメージ画像です
さらに、巻によって漢文のうまさが違い、書いた人が別々らしいという研究まであると知って、この本の見え方ががらりと変わりました。
日本書紀は、きれいに仕上がった物語ではありません。
集めた資料を机いっぱいに広げ、「これも残そう」「ここは年代が合わない」と格闘していた途中の姿が、そのまま一冊になって残っているような本なのです。
この記事では神話のあらすじには深入りせず、そんな「作りかけ」の跡をたどっていきます。
まずは基本から:日本書紀とはどんな本か
『日本書紀』は720年に完成した全30巻の歴史書で、国が作った公式の歴史書、いわゆる「正史」としては日本最古のものです。
編纂の中心にいたのは天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)で、神々の時代から持統天皇の時代までを、「何年何月何日に何があったか」という年表の形で書き進めています。

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古事記との違いは「読ませたい相手」
よく比べられる古事記は、日本書紀より8年早い712年に完成しました。
全3巻と短く、漢字で書かれてはいても日本語の言い回しがかなり残っているので、神話の場面をたっぷり楽しめる読み物になっています。
一方の日本書紀は、中国の正式な文章にできるだけ近い漢文で、記録を淡々と積み上げていきます。
同じ時代にここまで違う本が作られたのは、読ませたい相手が違ったからだと考えられています。
中国や朝鮮半島を含む東アジア世界に「日本にもこれだけの歴史がある」と示す意識があり、そのため当時の国際語だった漢文と、中国史書にならった編年体が採用されたと考えられています。
最古の写本は「裏紙」になっていた
実は、720年に完成した原本は残っていないので、私たちが読んでいるのは、後の時代の人が書き写した写本をもとにしたものです。
現存するいちばん古い写本は、奈良国立博物館にある巻第十の残巻で、平安時代初めの9世紀ごろに書き写されたと考えられています。
首尾を欠いているものの、応神天皇2年から41年まで、巻第十の大部分が残っています。
ところが、この写本の裏側には、平安時代の後期になって空海の詩文集『性霊集』が書き写されていて、しかもそれが『性霊集』のほうでもいちばん古い写本とされています。
どうやら、9世紀に書き写された日本書紀が役目を終えたあと、その紙背が再利用されたようです。
紙が貴重だった時代だからかもしれませんね。
日本最古の正史の最古の写本と、空海の詩文集の最古本が、同じ紙の表と裏で背中合わせになって残っているわけです。
書名にも「日本紀」と「日本書紀」の二通りがある
書名にも、少し不思議なところがあります。
完成を伝える歴史書『続日本紀』には「日本紀」と書かれていて「書」の字がなく、平安時代の宮中で開かれた講義も「日本紀講筵」と呼ばれていました。
ですが、古い史料には「日本書紀」という名前も見え、現存する古写本も「日本書紀」と題されています。
さらに『万葉集』には「日本紀」と「日本書紀」の両方が出てくるため、どちらが本来の書名だったのかは、今も定説がありません。
面白さ①:本文と違う伝承を捨てずに残した

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冒頭で触れた「くり返し」の正体は、神代の巻の独特な作りにあります。
まず本文が一つの神話を語り、そのすぐあとに「一書に曰く(あるふみにいわく)」、つまり「別の本ではこう書いてある」と断って、少しずつ内容の違う別バージョンが並べられています。
その数は、第四段では十本、第五段ではなんと十一本。国が総力を挙げて作った公式の歴史書なのに、建国神話のいちばん大事な場面で「こういう説もあります」が十一回も続くので、初めて読んで迷子になるのも無理はありません。
小さな注だった「一書」が、本文と同じ大きさに
とはいえ、もともと主役は本文で、一書は脇役でした。
國學院大學の渡邉卓准教授によると、古い写本の一書は本文のあいだに小さな字で書き込まれた注だったのですが、卜部(うらべ)氏の系統の写本が、読みやすくするために本文と同じ大きさの字に改めたそうです。
見た目が変わると、扱いも変わっていきます。
のちに卜部家の神道の考え方と結びついて、一書も本文と同じくらい大切なものとして扱われるようになりました。
私たちが思い浮かべる「一書=もうひとつの神話」というイメージは、後の時代のレイアウトが育てたものでもあるんです。
なぜ一つに絞らなかったのか
国の公式な歴史なら、説を一つに決めてしまえばすっきりしそうですよね。
中国の正史にも複数の説を並べる例はありますが、神代の巻ほど大量の別バージョンを抱えた例は目立ちますし、古事記にはこうした仕組みがありません。
なぜここまで残したのかは、今もはっきりしていません。
よく言われるのは、有力な豪族たちが大切にしてきた祖先の話を「不採用」にすると、その豪族の立場が揺らいでしまうから、という説明です。
ただ私は、編纂者たちが「わからないことを、わからないまま置いておける人たち」だったような気もしていて、そう感じる理由が、次に紹介する継体天皇の記事です。
面白さ②:没年の判断に「後の人が調べてくれ」と書き添えた

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継体天皇がいつ亡くなったのかについて、編纂者の手元には食い違う記録がありました。
ある本は「即位から二十八年目」と伝えていたのですが、日本書紀の本文は「二十五年目(531年)」を採っています。
その根拠になったのが、朝鮮半島の百済の歴史書『百済本記』です。
そこには、531年にあたる年に「日本の天皇と太子・皇子がそろって亡くなったと聞いた」という穏やかではない記事があったので、編纂者はこれを手がかりに二十五年目を選びました。
しかも、「聞いた」という伝聞の記録であることまで、そのまま書き残しています。
さらに編纂者は、「後に調べ直す人が、きっと明らかにしてくれるだろう」という一文まで添えています。
天皇が亡くなった年という大事な数字について、国の歴史書が「まだ確かではない」と認めているわけですから、日本書紀を「権力者に都合のいい作り話」とだけ思っていると、この一行はまず見落としてしまいます。
ちなみに『百済本記』そのものは、今はどこにも残っていません。
日本書紀が引用してくれたおかげで、その一部だけが化石のように生き延びたので、歴史書の中に別の歴史書がタイムカプセルのように閉じ込められているようなものです。
面白さ③:巻によって書いた人が違う可能性がある
冒頭で触れた「巻によって漢文のうまさが違う」という話は、言語学者・森博達さんの研究によるものです。
森さんが漢字の音の使い方や文法のクセを一巻ずつ調べたところ、全30巻は大きくα群とβ群に分かれ、最後の巻30はそのどちらとも異なる性格をもつことがわかりました。
α群は巻14〜21と巻24〜27、β群は巻1〜13・22〜23・28〜29です。
α群の漢文は、当時の中国の発音にとても忠実に書かれています。
森さんは、こうした音の書き分けの正確さなどから、α群の書き手を中国語母語話者とみて、日本に渡ってきた続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)が書いたと推定しています。
β群はその逆で、日本語で考えてから漢文にした人のクセが目立ちます。
たとえば「愁」と「憂」は、日本語ではどちらも「うれう」と読みますが、中国語では使い分ける字なので、β群ではこれが混ざってしまっているのです。
「所」という字の使い間違いも34か所のうち31か所がβ群に集中していて、書き手と推定されているのは、元は学問僧だった日本人・山田史御方(やまだのふひとみかた)です。
本人が名乗らなくても、文章のクセは指紋のように残ってしまうんですね。
しかも書き分けの跡は暦にも表れていて、国立天文台の研究では、前半の巻で使われている二種類の暦の境目が、α群とβ群の境目とほぼ重なるそうです。
ただし後半ではそうならないので、二つのグループと二つの暦がきれいに対応しているわけではありません。
面白さ④:天皇の寿命が合わない理由

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日本書紀では、初代の神武天皇は127歳、第六代の孝安天皇は137歳、第十一代の垂仁天皇にいたっては140歳まで生きたことになっています。
さすがに、そのまま信じるのは難しい数字ですよね。
この不自然な数字に鮮やかな説明を示したのが、明治時代の歴史学者・那珂通世(なか・みちよ)でした。
古代中国には、干支が「辛酉(かのととり)」になる年に大きな変化が起きるという考え方があり、なかでも60年ごとにめぐる干支を21回くり返した1260年を、特別な周期とみていました。
那珂は、編纂者がこの考え方を使って、推古天皇の時代の601年から1260年さかのぼった紀元前660年を、神武天皇の即位の年に定めたと考えました。
この説に立つと、話の順番が逆になります。先に紀元前660年という遠いスタート地点が決まってしまったので、そこから推古天皇までの長い年月を、歴代の天皇で埋めなければならなくなったわけです。
天皇が長生きだったというより、年表のほうが長すぎたのかもしれません。もちろん有力な説の一つで、確定した事実ではありません。
面白さ⑤:1300年後に価値が生まれた記録
620年の「赤気」はオーロラらしい
推古天皇28年(620年)の記事には、空に赤い光が現れ、その形はキジの尾に似ていた、というたった一行の不思議な記録があります。
何を見たのかはっきりしないので、長いあいだ怪しい出来事の記録として扱われてきました。
ですが2020年、国立極地研究所などの研究グループが、この光に有力な答えを示しました。
日本のような地域で見えるオーロラは赤く、扇のように広がる形になるのですが、キジもまた、求愛のときに尾羽を扇の形に広げる鳥です。
さらに当時の日本は、磁気緯度が現在より約10度高く、大きな磁気嵐が起きればオーロラを観測しやすい条件にありました。
こうした点から、研究グループは「オーロラと考えるのが最も自然」と結論づけました。
実はこの箇所、写本によっては「雉(きじ)」ではなく「碓(うす)」と書かれていて、明治時代の研究でようやく「雉」が正しいとされてきました。
オーロラの研究は、その判断を科学の側から裏付けることにもなったんです。
古典の一文字をめぐる議論に宇宙の研究が加わると知ってから、私は書紀の不思議な記事を読み飛ばせなくなりました。
684年の地震は、文字で残る南海トラフ最古の記録
天武天皇13年(684年)の記事には、山が崩れ、役所や家や寺が壊れた大地震が記されています。
しかも、伊予国(今の愛媛県)の温泉が止まったことや、土佐国(今の高知県)で広い田畑が海に沈んだことまで書かれています。
記録はその日だけで終わりません。翌月には土佐から、大きな潮で税を運ぶ船がたくさん流されたという報告が届き、翌年には紀伊国(今の和歌山県)から温泉が止まったという知らせもありました。
日付の違うこれらの記事をつなぎ合わせると、四国から紀伊半島まで広い範囲を揺らした、南海トラフ巨大地震の姿が見えてきます。
この地震は今、文字の記録で確認できるいちばん古い南海トラフ沿いの大地震とされ、防災の研究でも参照されています。
編纂者が千年以上あとの防災のことまで考えていたはずはありませんが、一件ずつ書き留められた記録が、今では巨大地震に備えるための手がかりになっているんです。
平安貴族も「読み解く会」を開いていた

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日本書紀は、完成したあとも読み継がれていきました。完成の翌年から965年まで、宮中では「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」という講義が7回も開かれていて、貴族たちが先生の読み方を聞き、わからないところを質問し合っていました。
いわば、国公認の読書会ですね。
しかも講義が終わると、「竟宴(きょうえん)」という打ち上げの宴が開かれました。
参加者は日本書紀に出てくる神や人物をお題に和歌を詠み、882年・906年・943年の宴で詠まれた歌は今も残っています。
難しい歴史書を何年もかけて読み、最後はみんなで歌を詠んで盛り上がる光景を想像すると、1100年前の貴族がぐっと身近に感じられます。
読みどころ:壬申の乱と「倭の女王」の置き方
巻二十八は、まるごと壬申の乱の戦記
神話で挫折しかけた人にこそ読んでほしいのが、巻二十八です。
全30巻のうち天武天皇だけに2巻が使われていて、その1巻目のほとんどが672年の壬申の乱の記録になっています。
吉野を出た大海人皇子(のちの天武天皇)が兵を集め、どの豪族が味方につき、どこで敵とぶつかったのかが、日付や地名とともに次々と書かれていくので、まさに戦記として読めます。
しかも、編纂の中心にいた舎人親王は、この戦いに勝った天武天皇の皇子でした。
何が起きたかだけでなく、勝った側がそれをどう語ろうとしたのかに注目すると、読みごたえがぐっと増します。
神功皇后紀に置かれた「倭の女王」
神功皇后の巻には、倭(日本)と中国の国々のあいだで使者が行き来したことを伝える記事が、中国の歴史書から四か所、注として差し込まれています。
日本書紀は「神功皇后=卑弥呼」とは一言も書いていないのですが、中国の歴史書に出てくる「倭の女王」の時代にぴったり重なる位置に、これらの記事を置いているんです。
ですが、全部を卑弥呼の話と読むのは早とちりです。
最後の記事の年は、日本書紀では「泰初二年」とありますが、実際の中国の年号では泰始二年(266年)にあたり、卑弥呼が亡くなったとされる時期より後になります。
そのため、この女王は卑弥呼の後継者とされる台与(とよ)だとみる説もあります。
はっきり言い切らずに資料だけを並べ、あとは読者に考えさせる――そんな編纂者のしたたかさが見える箇所です。
どこから読めばいいか
巻一から順番に読むと、本文と一書が入り組んだ神代の巻でつまずきやすいので、人物が生き生きと描かれ始める推古天皇のあたり(巻二十二)以降か、先ほど紹介した巻二十八から読むのがおすすめです。
現代語訳なら、宇治谷孟さんの訳による講談社学術文庫版(上・下)が読みやすいでしょう。
まとめ:完成した本なのに「作りかけ」が見えるから面白い
別バージョンの神話を十一本も並べ、天皇の没年の判断を後の人にゆだね、巻のグループごとに書き手の違いが見え、年表のつじつまも合わない。
日本書紀には、ふつうなら消されてしまう編集の途中の跡がそのまま残っていて、そのおかげで、オーロラや南海トラフ地震の記録も1300年後の私たちに届きました。
私自身、通読するまでにはずいぶん時間がかかりましたが、今では三十ページで手が止まったあの日とはまったく別の本に見えています。
「作りかけの跡を探す本」だと思って開けば、日本書紀はきっと、ぐっと手に取りやすくなるはずです。
■参考にした主な資料
- 森博達『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』中公新書、1999年
- 谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」『国立天文台報』第11巻、2008年
- 國學院大學「時代に応じて読み、書き継がれた古典」(渡邉卓准教授)
- 奈良国立博物館「日本書紀巻第十残巻(紙背 性霊集)」収蔵品解説
- 片岡龍峰ほか「雉尾攷―日本書紀にみる赤気に関する一考察」『総研大文化科学研究』第16号、2020年/国立極地研究所プレスリリース(2020年3月16日)
- 『日本書紀』巻第九(神功皇后)三十九年・四十年・四十三年・六十六年の分註
- 『続日本紀』養老4年5月条
- 那珂通世「上世年紀考」(神武天皇即位紀元と辛酉革命説)
- 『日本書紀』天武13年10月・11月条、天武14年4月条
※本記事は一般向けの解説であり、成立事情・年代比定・執筆者の推定については学説が分かれる論点を含みます。
