「楽しい」と「愉しい」の違い|愉は常用漢字です。表の外にあるのは「読み」のほうでした

本を読んでいて、あるいは誰かのブログを読んでいて、「愉しい時間でした」という一文にふと目を止めたことはないでしょうか。

読み方は同じ「たのしい」なのに、そこだけ文章の温度がすこし変わったように見える。

この字に出会うたび、書いた人が何かを選び取った気配のようなものを感じます。

この二つの表記については、すでに多くの解説があります。

「楽しいは外から与えられる楽しさ、愉しいは内側からにじむ楽しさ」──おおむね、そう説明されています。

ただ、辞典や公的な資料をたどっていくと、その説明はどうやら物語の後半部分でしかないらしい、ということが見えてきました。

前半には、もっと面白い話が眠っています。

先に30秒で分かる結論

結論から言えば、「楽しい」と「愉しい」に、辞書全体で共有された明確な意味の違いはありません。

標準的な表記は「楽しい」で、「愉しい」のほうは「愉」という字ではなく「たのしい」という読みが常用漢字表の外にあるため、公用文や新聞では原則として使われません。

のうえで、内面的でじっくり味わうような楽しさを表すために「愉しい」が選ばれることがあります。

ここから先は、その「辞書全体では共有されていないルール」がどこから生まれたのかを、字源と制度史からたどっていきます。

調べていくうちに、私自身が最初に立てた仮説のほうが間違っていた、という場面もありました。

まず押さえたいのは、意味よりも「表記の資格」の話です

意味の違いから入りたくなる気持ちはよく分かるのですが、実務的にいちばん影響が大きいのは意味ではなく、「その表記を、どこで使ってよいのか」という資格の問題です。

ここを先に片づけておくと、後の話がずいぶん見通しよくなります。

「愉は常用漢字ではない」という説明は、半分だけ正しい

検索して出てくる記事の多くが、「愉しいは常用外漢字だから公的な場面では使えません」と書いています。

私も最初はそのまま信じていたのですが、漢字ペディア(日本漢字能力検定協会)で「愉」を引くと、はっきり常用漢字と表示されます。

中学校で習う字で、漢検でいえば準2級の範囲です。

「愉快」「愉悦」といった熟語で日常的に目にする字ですから、考えてみれば当然でした。

常用漢字表は「字」と「読み」を別々に決めている

ではなぜ「使えない」と言われるのかというと、常用漢字表という枠組みが、収める漢字と、その漢字に認める読み方とを別々に定めているからです。

常用漢字表で「愉」に添えられている読みは音の「ユ」だけで、用例も「愉快」「愉悦」にとどまり、訓の「たのしい・たのしむ」は含まれていません。

こうした読みを表外読み(表外音訓)と呼びます。

つまり正確には、「愉という字が表の外にある」のではなく、「愉をたのしいと読む読み方が表の外にある」わけです。

細かい差に見えるかもしれませんが、この理解の順序が変わると、次に出てくる「娯しい」といった表記の位置づけまで一気に説明がつくようになります。

だから公用文と新聞では、原則として「愉しい」を用いません

2022年に文化審議会が建議した「公用文作成の考え方」では、公用文において常用漢字表にない漢字と音訓は用いない、という原則が示されています。

ここで大事なのは、これがあくまで原則だという点で、文書の性格や読み手によっては別の表記を採ることも認められています。

とはいえ、役所の文書に「愉しい」と書く場面はまず想定されないと考えてよいでしょう。新聞社や通信社の用字用語集も同じ立場で、こうした表外読みは基本的に表内の表記へ書き換えられます。

学校教育でも、常用漢字表は漢字指導の重要な基準になっています。

ただし文部科学省は、音訓の学年別の割り振りをあくまで指導上の目安とし、弾力的に扱ってよいとしています。

ですから「愉しいと書けば必ず減点」と言い切ることはできません。

漢字の読み書きそのものを問う設問では、学習した範囲の表記に従うのが無難、というあたりが実際のところです。

古語の「たのし」には、「裕福だ」という意外な意味もありました

ここからが、調べていていちばん面白かった部分です。

そして正直に書いておくと、私はこの章を最初、まったく逆の内容で書こうとしていました。

「裕福だ」という意味は、院政期になって現れました

古語の「たのし」を辞書で引くと、心が満ち足りて快いという現代的な意味のほかに、「物質的に豊かである。裕福である」、そして「作物などが豊富である」という語義が並んでいます。

これを見つけたとき、私は「たのしの原義は裕福だったのか」と早合点しかけました。

頼れるものが十分にあり、蔵に米がある状態を指す言葉が、やがて心の話に転じていった──そう書けば筋が通るように思えたのです。

ところが精選版『日本国語大辞典』で用例の年代を確かめると、話はまったく逆でした。

年代を並べると、順番はきれいに反転します

同辞典が挙げる初出は、精神的・身体的に満ち足りて快いという語義が『古事記』(712年)の歌謡「多怒斯久もあるか」、裕福だという語義が『今昔物語集』(1120年頃)、作物が豊富だという語義が『大鏡』(12世紀前半)です。

語誌の説明も明快で、上代では精神的な快楽を示す用法が目立ち、院政期以降になって物質的な裕福さの意味が現れ、中世には金銭的な充足の意味が増えて、対語が「まづし(貧しい)」になっていったとされています。

つまり「裕福だ」は原点ではなく、後から枝分かれした意味でした。

ネット上でよく見る「楽しいと愉しいの使い分け」の説明を疑ってかかった私自身が、別のところで同じ罠にはまっていたわけです。

ただ、この訂正によって話がつまらなくなったかというと、まったく逆でした。

「たのしい」の反対語が一時期「まづしい」だったという事実のほうが、よほど強く記憶に残ります。

漢字の意味の差は、そのまま日本語の気持ちの差ではありません

いずれにせよ確かなのは、「たのし」が漢字「楽」の字義から作られた語ではなく、和語として上代の文献にすでに現れている、ということです。

そこへ「楽」と「愉」という、由来のまったく違う中国の文字があとから当てられました。

二つの字の意味の違いは中国語における字義の違いであって、和語「たのし」がもともと抱えていた気持ちの内訳ではありません。

この順番を意識すると、世に出回っている使い分け説明の性格が変わって見えてきます。

あれは古来の正解を再現したものというより、借り物の服を二着与えられた日本語話者が、長い時間をかけて着分けのルールを自作していった記録に近いのではないでしょうか。

「楽」は音楽の字、「愉」は心の字

では、その二着の服はそれぞれどこから来たのでしょうか?

字源をたどると、驚くほど違う場所に行き着きます。

ただし字源というのは説が分かれやすい領域なので、ここでは「どの辞典がどう説明しているか」を添えながら見ていきます。

楽(樂)は、木に糸を張った弦楽器の形

旧字の「樂」について、漢字ペディアや『角川新字源』は、木に糸を張った弦楽器をかたどった象形とし、一説には鈴の形ともしています。

どんぐりの実の象形とする説明も広く流布していますが、甲骨文字や金文の字形から支持しにくいという指摘もあり、決着しているわけではありません。

ただ、どの説を採るにせよ、この字がもともと音楽の側にいた字であることは共通しています。

中国最古級の字書である『説文解字』も、樂を五声八音の総称として扱っていました。

「たのしい」は、あとから加わった意味です

この字が「たのしい・たのしむ」の意味を持つようになったのは、もともとの「音楽」の意味から転じてのことだと説明されています。

さらに苦がない状態を指す「らく」の意味も加わり、「音楽」「楽しい」「楽(らく)をする」という三方向の用法が一つの字に同居することになりました。

標準表記のほうが、感情を表す役目については後発だったわけです。

心という部品を持たない字が、日本語で最も基本的な感情の担当になっている──この事実に気づいたときは、少し愉快な気持ちになりました。

「愉」の説明は、辞典によってずいぶん違います

いっぽうの「愉」について、漢字ペディアや『角川新字源』は、心と音符の兪(ユ)から成る形声文字で「たのしむ」意を表す、とあっさり説明します。

ここには字形の物語がありません。

白川静の説では、「兪」は治療の場面から生まれた字でした

ところが白川静の字源説をとると、風景が一変します。

『字通』によれば「兪」は、舟の形をした盤と、余すなわち手術用の刃物とを組み合わせた字で、患部を刺して膿を盤に移し取る医療行為を表しているとされます。

そして痛苦が除かれて心が安らぐことから「愉」が生まれ、「兪」自体が「癒」のもとになった字(初文)だと説明されます。

なお、同じ「兪」を音符に持つ字には、諭・喩・輸などがあります。

この説に立つなら、「愉しい」という表記が担っているのは、上から足していく喜びではなく、詰まっていたものが抜けたあとの軽さだということになります。

楽が音を足して場を満たす字であるのに対して、愉は引き算の字だ──というのは、白川説からかなり踏み込んだ私自身の読み方ですが、ネット上でよく語られる「内面的で静かな楽しさ」という説明が、この字源とうまく響き合っているのは確かだと思います。

形声文字として淡々と処理する辞典と、医療の場面まで遡る辞典が併存している、という事実そのものも、なかなか興味深いところです。

「たのしい」と書ける漢字は、二つではありません

ここまで二字の話をしてきましたが、じつは候補がもう一つあります。

国語辞典の表記欄をのぞくと、「たのしい」には「愉しい」のほかに「娯しい」を添えているものがあり、漢字ペディアも「娯」に表外訓の「たのしむ」を認めています。

読みが常用漢字表の外にあるという点では、「愉しい」とまったく同じ立場です。

楽・愉・娯、それぞれの立ち位置

表記 常用漢字表での扱い 字が本来担う意味 現在の使われ方
楽しい 字・訓ともに表内 音楽、のちに安楽 あらゆる場面の標準表記
愉しい 字は表内・訓は表外 たのしむ、よろこぶ(白川説では痛苦が除かれ心が安らぐ) 私的な文章で好まれる
娯しい 字は表内・訓は表外 戯れる、慰み(娯楽) 辞書の表記欄に残る程度

「悦しい」を数に入れなかった理由

文学作品では「悦しい」という表記も見かけますが、これは表に入れませんでした。

常用漢字表の「悦」に載る読みは「エツ」だけで、漢字ペディアが認めている表外訓も「よろこぶ」であって、「たのしい」は掲げられていないからです。

作品ごとのルビとしては成立しても、辞書に裏づけのある表記候補として楽・愉・娯と並べるのは無理がある、と判断しました。

こういう線引きの違いが出てくること自体、表記の世界の面白さだと思います。

ちなみに、漢和辞典で「たのしい」と引いて出てくるのは「楽」「愉」とその異体字くらいなのに、国語辞典の側では「娯しい」まで拾われます。

前者は字に認められた訓を基準にし、後者は実際に書かれてきた表記を基準にしているため、同じ問いに二種類の物差しで答えが返ってくることになります。

「楽しい=みんなで、愉しい=ひとりで」に根拠はあるのか

さて、ここで最初に触れた通説に戻ります。多くの記事が、楽しいは外から与えられる受動的な喜び、愉しいは内側からにじむ能動的な喜び、と説明しています。

感覚としては私も同意するのですが、その根拠がどこにあるのかは、正直なところ確かめられませんでした。

辞典には、そこまで書かれていません

漢和辞典が「愉」に与えている語釈は、たのしい・たのしむ・よろこぶ、そして心のわだかまりがないといったところまでで、一人でとか、じっくり味わうといった限定はついていません。

国語辞典の側も、多くは「たのしい」の見出しに表記を併記するだけで、厳密な使い分けまでは示していません。

例外的に、漢字の「書き分け」欄を特色として掲げる『明鏡国語辞典 第三版』のような辞典もありますから、お手元の辞書を一度のぞいてみる価値はあります。

文化庁が公表している「『異字同訓』の漢字の使い分け例」にも、この二つは登場しません。

あの資料が対象にしているのは常用漢字表に認められた訓どうしの比較であって、表外読みの「愉しい」はそもそも土俵に上がっていないからです。

つまり現在広まっている説明は、辞書に書かれた規範というより、書き手たちが運用のなかで育ててきた慣習的な了解ということになります。

それを軽んじたいのではなく、むしろそういう出自を知ったうえで使うほうが、はるかに気持ちよく使えると思っています。

ただし、辞書が語る「たのしい」の性格は参考になります

唯一、辞書のなかに手がかりらしきものを見つけたのは、先ほどの『日本国語大辞典』の語誌でした。

そこでは「うれしい」との違いとして、うれしいがその場での直接的な反応を示すのに対し、たのしいは気持ちの持続を表す、と説明されています。

楽と愉のどちらを選ぶかという話ではありませんが、「たのしい」という語そのものが、瞬間の反射ではなく持続する状態を指す言葉だと辞書が捉えている点は、押さえておく価値があります。

ある時間をひとまとまりで振り返るときにこの語を使う、という感覚は、表記の選択よりも手前のところで共有されているわけです。

結局、どちらを使えばいいのか

「楽しい」を選ぶべき場面

公用文、新聞、そして不特定多数に向けた文章

役所に提出する書類や公的な性格を持つ告知文では「楽しい」一択で、読みやすさを最優先する新聞・放送の原稿も同じです。

ビジネス文書や不特定多数に配る案内文も、読み手に一瞬の引っかかりを与えないという一点だけで「楽しい」を選ぶ理由になります。

学校の課題も、迷ったら習った表記で書いておくのが安全でしょう。

「愉しい」が効く場面

個人のブログ、手紙、エッセイ、俳句や短歌、日記。要するに、書き手の顔が見えていて、表記そのものが表現として読まれる文章です。

こういう場所では、「愉しい」という一字が、書き手がその時間をどう受け取ったかを示す小さな注釈として働きます。

ただし、乱発すると効き目は急速に落ちます。

一本の文章のなかで何度も出てくると、それはもう選択ではなく癖として読まれてしまう。

ここぞという一箇所にだけ置いたときに、この字はいちばんよく光るように思います。

「愉しい」は、最近生まれた表記ではありません

最後に時間の向きの話をしておきます。「愉しい」を、近ごろの書き手が編み出したおしゃれな表記だと受け取っている方は少なくないはずです。

ところが実際には、漢字の使用に制限がなかった時代の文章に、この表記の実例が残っています。

たとえば坂口安吾には、1934年に雑誌「桜」へ発表された『愉しい夢の中にて』という作品があります。

興味深いのは、その本文です。

題名で「愉しい」を選んでおきながら、作中では「楽しい夢」「楽しかった」「人生の楽しい姿」というように「楽しい」が使われています。

同じ書き手が、同じ作品のなかで二つの表記を使い分けている。つまりこの字はすでに当時から、意味の異なる別の語というより、書き手が表現として選び取る一枚の看板だったことになります。

私たちがいま「愉しい」に感じている特別な手ざわりは、90年前とそれほど変わっていないのかもしれません。

1946年と1948年、二段階で退場しました

制度の側の動きは、二つに分けて見ると分かりやすくなります。

まず1946年11月16日に告示された当用漢字表が、使ってよい漢字の字種を1850字に絞りました。

続いて1948年2月16日の当用漢字音訓表が、その一字ずつについて認める音訓を定めます。

「愉」を「たのしい」と読む読み方が公的な枠の外に置かれたのは、この二段目でした。

読みの制限はのちに緩められ、1973年の改定音訓表では357の音訓が追加されましたが、「愉」の訓読みはそこにも、1981年の常用漢字表にも、2010年の改定常用漢字表にも入りませんでした。

いま私たちが「気取った表記」として眺めているものは、二段構えの制度によって公的な文章から静かに退場させられた表記だ、ということになります。

そう考えると、私的な文章のなかで「愉しい」と書く行為には、ささやかな里帰りのような手ざわりが出てきます。

まとめ

「楽しい」と「愉しい」の関係を整理すると、こうなります。日本語の「たのし」は漢字「楽」の字義から作られた語ではなく、和語として上代の文献にすでに確認でき、その段階では心身が満ち足りている状態を指していました。

そこへ音楽を表す「楽」と、心のつかえに関わる「愉」という、由来のまったく違う二つの字があとから当てられます。

制度の側は「楽」の訓だけを認めたため、「愉しい」は公的な文章から退場し、私的な文章のなかで生き延びました。

意味の使い分けに公的な正解はありません。

ただ、字源をたどるかぎり、足していく喜びの「楽」と、詰まりが抜けたあとの軽さの「愉」という対比には、それなりの手がかりがあります。

どちらを選ぶかは、結局、その時間を自分がどう受け取ったかという申告に近いのでしょう。

漢字を選ぶという行為が、これほど正直なものだとは思っていませんでした。

また、当サイトでは、100種類以上のたくさんの似て非なる言葉の特集をしています。ぜひこちらもチェックしてみてくださいね。

■参考にした資料

  • 精選版『日本国語大辞典』「たのしい」(コトバンク)
  • 常用漢字表(平成22年内閣告示第2号)/文化庁
  • 文化審議会「公用文作成の考え方(建議)」令和4年1月
  • 漢字ペディア(日本漢字能力検定協会)「愉」「娯」「悦」
  • 白川静『字通』「兪」(コトバンク所収)
  • 『明鏡国語辞典 第三版』(大修館書店)
  • 坂口安吾『愉しい夢の中にて』(初出「桜」第二巻第三号、近藤書店、1934年/青空文庫)